泡沫の恋と人はいう
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それからひっそりと、ジュリエットとロミオの恋の花は咲き始めました。ジュリエットと二人でいる時、ロミオは自然と微笑むようになり、ジュリエットがそれに微笑み返すと、ロミオの笑みも濃くなります。そして二人は誰にも見られないように抱きしめあい、時々はキスを交わしました。小さな恋はひっそりと、またゆっくりと進む関係を善しとしましたが、やがて深くなっていく愛は、ジュリエットに更なる発展を強く望むようになりました。
ジュリエットは愛の望むままに考えました。この恋を成就させるのに必要なものは何なのだろうか、と。ジュリエットはお父様を愛していましたが、そのお父様が、ジュリエットがロミオとの恋を認めて欲しいと言って受け入れてくれる人ではないことを知っていました。そしてジュリエットは、必ずしもお父様にこの恋を認めてもらわなくてはいけない、とは考えませんでした。
ジュリエットは愛という暴君の促すままに考え、考えた結果をロミオに打ち明けました。ロミオは最初のうち、ジュリエットの考えはまったく馬鹿らしいもので、そんな考えに従って行動することは有り得ないと言いました。けれどジュリエットは諦めませんでした。何度もロミオを説得し、そしてようやく彼と一緒に一人の隠者の元を訪れる機会を設けたのです。
その隠者は昔――十年とも五十年とも言われていますが――まだ今よりは人口の多かった時には人間だったという人でした。今の彼は人ともアンドロイドとも違う、脳だけを残し、その他のものはすべて機械に置き換えたサイボーグという種の存在になっていました。彼は肉体的には機械の老いない強靭な体を手に入れ、しかしその脳だけは、決して機械では追いつけない人間の脳を残したのです。だから彼は長い間知恵者としてあらゆる種の者に知られていました。
ジュリエットは彼の知恵と、そして彼という前例を知るために隠者の元を訪れたのです。
「お嬢さん、恋は昔から熱病のような激しさで人を焦がすものだ。それは時が経てば平常に戻ってしまうものもある」
ジュリエットが出会った隠者は、顔や声はお父様よりも若い三十代前半くらいの男性でしたが、その話し方は精神的な年齢を反映しているのか、とても静かで、知恵に溢れたものでした。その話し方でもって、ジュリエットの考えを聞いた隠者はゆっくりと諭すようにジュリエットに言い聞かせるのです。
「治らない病もあるわ」
ジュリエットは隠者の知恵に丸め込まれないように気を張って、つっけんどんにそう答えました。隠者はそんなジュリエットを見て、微かに笑いました。
「その通り。だが、その病を得ることはお父様を悲しませるだろう」
お父様のことを持ち出されれば、ジュリエットだって胸は痛みます。けれど――。
「……いずれは捨てなければならないものですもの」
ジュリエットはその言葉を、心から悲しく思いつつも放ちました。
「そうか。捨てているという自覚はおありなのだな」
隠者の声はジュリエットの気持ちを察してとても優しく響きます。
「小娘の馬鹿な恋とお思い?」
「いや、お嬢さん。あなたはきっと人にしかできない恋をしている」
隠者の声は相変わらず優しく響きましたが、その内容にジュリエットの表情は強張ります。
「……それは、彼は私に恋をしているのではないということ?」
私が彼に恋をしていたとしても、彼はそうでないと? ジュリエットが声を大きくしても、隠者はまるでそれに感情を乱されることはなく、少しだけ困ったような顔をして首を横に振りました。
「私には分からない。もし感情プログラムがされていたとしても、その機械は恋をするだろうか? 感情プログラムがされていないのならなおさら。だが、彼は君をここへ連れてきた。君の命令だったからではない。君の願いだったからだ」
ジュリエットは何でも知っていると言われている隠者の瞳の中に、“自分はそれを知らない”という不安を見たような気がして、声を和らげました。
「貴方は恋をしたことがある? 隠者様」
ジュリエットの問いに、隠者はその整った顔を一瞬しかめました。
「あれが恋だったのか、という想いなら抱いたことがあるよ、お嬢さん。私の脳は、それをずっと覚えている」
今度はまるでジュリエットの方が諭すようにして隠者に呼びかけます。
「人の脳が抱く恋も、それが恋と分かるのは自分の脳の内だけだわ。私は恋をしている。私はそう思うから。結局、機械でも人でも、感情を持ったか持たないかは、他人に判断してもらうようなことではないと思わない?」
ジュリエットの情熱を、隠者はやはり理解できないという顔で受け止めました。
「聡明なお嬢さん、その聡明さを持って踏みとどまるということはしないのかね?」
「何故止めようとするの? 隠者様。貴方だって人の肉体を捨てて生きている。私がそれを望んではいけないというの?」
「熱病から覚めたとき、戻りたいと思っても人には戻れないのだよ。その、心臓が脈打ち、血が流れ、年とともに老いて死ぬ、幸せな人間には戻れないのだ。それに、脳にだって寿命がある。永遠に、そのアンドロイドと一緒に生きることは叶わないだろう」
そう言った隠者自身が、後悔したことがあるのでしょう。サイボーグという体は、永遠の楽園にはなりえないのだ、と隠者は言います。けれどジュリエットだって、楽園を望んで人を捨てるわけではないのです。
「機械にだって、寿命はあるわ。私は彼と永遠に生きていたいと思うわけではないの。ただ、彼に近づきたいと思うだけなのよ」
隠者はそれ以上何を言っても、ジュリエットの決意を揺るがすことさえできないと思ったのでしょう。小さく首を横に振ると、ジュリエットの側に距離をおかずに立っているロミオに向かって尋ねてきました。
「君は彼女を好きだと思うのかね? ロミオ。彼女が人を捨てることを、捨てれば自分に近づくと思うのか」
ロミオは隠者の質問を受けて、まずジュリエットの方を見ました。ジュリエットは不安の混じる視線で、ロミオのことを見上げています。
「ジュリエットが人を捨てることが、本当に彼女のためになるのかどうか、俺には分からない。できれば、人のままでいて欲しいと、思う」
「ロミオ……」
ジュリエットはそのことについて何度もロミオと話して、納得してくれているものと思っていましたから驚きました。けれど不思議と、お父様やパリス様に対して思った“裏切られた”という印象は持ちませんでした。
「俺は彼女の温かい息が好きだから……」
それはきっと、彼の愛情のすべてを、ジュリエット自身が愛していたからなのでしょう。
「温かい息が、か」
「でも、それを失ったとしても彼女を好きな気持ちは変わらない。俺は、ジュリエットが好きだ。彼女の望む通りにしてやりたい。その結果がどんなものになろうとも、乗り越える時に二人が一緒なら、それでいいと思う」
ロミオはそう言って、ジュリエットに向かって微笑みました。ジュリエットはそれに惜しむことなく微笑み返します。隠者はロミオの微笑みにひっそり息を呑みました。まるで――。
まるで人間のように笑う。
隠者はそう思いましたが、この恋人達が慎重さを失わないように黙っていました。
「……お前はそれを恋だと言うのか?」
隠者はロミオに尋ね、ロミオはその問いに小さく首を振りました。
「分からない。でも、アンドロイドである俺がわからないものだからこそ、これが恋というものなのかもしれないと思う」
隠者にはジュリエットの論理が理解できないように、ロミオの主張も完全には納得がいきませんでした。けれど、隠者自身が彼らのしている“恋”について語る言葉を持たないのですから、これ以上何が言えるでしょうか。
「人にしかできない恋。そしてアンドロイドにしかできない、恋、か……」
隠者はその膨大な知恵の中に何か新たなものを刻んだような顔をして、二人の恋人達に協力することを約束してくれました。ジュリエットの脳を収め、まるで人のように動く機械の体を用意してくれる、と言ってくれたのです。そしてさらに、二人の恋人達が親と買主の手を離れて生きていける場所を探してみるとまで言ってくれました。
ジュリエットはその結果に満足し、笑顔で隠者の元を後にしました。しかしジュリエットがどんなに完璧にことを運んだつもりでも、所詮は十六歳になるかならないかの娘が考えることです。ジュリエットがロミオを連れて、隠者の元へ足を運んだことを、お父様はすぐに耳に入れました。そして父親として、娘がいまどんな状態に心を浮かせているのか。それを知ることは、長年世界の一端を動かしてきたお父様にとって日常の情報収集のほんのついでのことでしかありませんでした。
ロミオは隠者との約束を取り付けて翌日に、ジュリエットには知られない形でお父様に呼び出されました。ロミオには隠者の元を訪れる前から、こうなることは分かっていましたから慌てることはありません。
「……何故呼ばれたのか分かっているな、ロミオ。私に知れずにことが進められると思っていたなら、愚か者だ。貴様も、ジュリエットも」
ジュリエットは現実を正確に見ることができず、夢ばかりを見ています。ロミオはジュリエットと違い、現実を正確に把握することができます。しかし、それでもなおジュリエットと同じ夢を見たかったのです。
「私は……ジュリエット様のことを愛しています」
これは夢であっても、偽りではない。ロミオはそう思いました。
「お前はとんだ不良品だ」
お父様はジュリエットには決して見せたことのないような、恐ろしい顔でロミオを睨み付けました。
「だがお前を買うために、私は馬鹿にならない金を出した。不良品だからといってスクラップにしてしまうわけにはいくまい……」
苦虫を噛み潰したような顔をして、お父様は考えるように唇を舐めました。お父様はそのひと舐めですべてを決めてしまいました。
「ロミオ、お前のメモリは必要のないことを記録しているようだ」
やはりそうなるのか、とロミオはそっと目を閉じました。そして考えます。抵抗するべきかどうかということを。ですが考えるまでもないのです。ロミオは記憶を消されても、壊されて廃棄され、ジュリエットの元にいられなくなるよりはずっといい、と思います。ただ、ジュリエットはどうでしょうか。記憶を失くし、再び笑うことのできなくなったロミオを、それでも愛してくれるでしょうか。
すべてを悟れば、ジュリエットはきっと悲しむでしょう。今のロミオが失われてしまったことを。その悲しみはどこまで続くでしょうか。ロミオはジュリエットの愛を疑ってはいません。彼女は失われたロミオを想って泣いてくれるでしょう。できれば、そのままその壊れてしまった恋を乗り越えて、お父様の言いなりになることなく他の恋人を見つけて欲しいとロミオは思います。悲しみは短い方がいい、とロミオは思います。
だから本当は、俺は壊されてしまった方がいいのだ。
跡形もなくなってしまえば、ジュリエットもロミオを忘れやすいでしょう。けれど、この作り物の瞳にジュリエットの姿が映らなくなるのは、ロミオには耐えられません。
こんなエゴを持ってしまった俺を、どうか許して――。
「許してくれ、ジュリエット」
整備台に横たわって呟いた最後の言葉さえ、ロミオはメモリと一緒に失いました。
数日、ジュリエットはロミオと会わない日を過ごしました。代わりに、お父様に言いつけられた通りに、夜会で踊ったパリス様にメールを打ちます。お父様に計画を知られてしまうわけにはいきません。表面上はパリス様に気のあるふりをしておくのも手だと思ったのです。
ジュリエットはパリス様にわざとらしく感じられない程度の好意を伝えるメールを送りました。文面を考えている間も、ジュリエットの心はロミオにありました。会えないことは苦しいことですが、すべてがうまくいけば、人として生きるよりずっと長い間ロミオと一緒にいられるのです。先のことを考えれば、今の苦しさを耐えることもできるのでしょう。逆にこの時間を我慢できなければ、ジュリエットはロミオへの感情を抑えることができず、お父様はジュリエットの気持ちに気づいてしまうでしょうから。
今だけ。我慢すればいいのは、今ちょっとだけ。
ジュリエットがパリス様へのメールの送信ボタンを押したその時、ロミオはジュリエットに許しを請いながら、その記憶の一切を消されていました。それを知らずに、ジュリエットはただロミオと過ごす未来を夢見てひとり微笑んだのです。
次にロミオが目覚めた時、ロミオの記憶に残っていたのは、最初にお父様がロミオに告げた言葉だけでした。ジュリエットは相変わらずロミオの宝でしたが、何よりもお父様の宝であり、ロミオというアンドロイドにとっては“特別な”宝ではなく、従うべき女主人でした。ジュリエットと過ごした日々のいくつかはロミオの記憶に残っていましたが、それはアンドロイドとその主人という関係を超えたものでは決してありませんでした。
一方ジュリエットは、隠者と約束した日を迎えて、はやる気持ちを抑えられずにいました。今日、夜になったらこっそりとロミオがジュリエットを迎えに来ます。彼は壁を乗り越えてジュリエットの手を取り、ジュリエットとともに再び壁を越えるのです。
うまくいくわ。きっと何もかもうまくいく。
ジュリエットはそう信じていました。けれどそれは泡沫の夢の話。ジュリエットへの想いを忘れ、約束を忘れたロミオは、まだ陽が落ちきらないうちにジュリエットの元を訪れました。
「……ジュリエット様」
その一言で、ジュリエットは夢から覚める思いがしました。二人の想いが通じ合ってから、ロミオがジュリエットのことをそう呼ぶのは人目があるときだけだったのです。いま部屋には二人だけ。それなのに、ロミオはジュリエットを「ジュリエット様」と呼び、名前を呼べるだけで幸せだという気持ちを微笑む顔で表していたロミオは、言葉を放つこと意外で口角を上げようとしません。
「……お父様ね。あなた……お父様にプログラムを書き換えられたんだわ」
悔しいことに、ジュリエットはお父様がジュリエットの考えを見抜いていたことをいま知ったのです。そしてずっとお父様の手の中で育ってきたジュリエットは、お父様の手を振り切ったつもりでも実際は手の中から出ることさえてできていなかったのでした。
「それが?」
ロミオの短い言葉はさらにジュリエットを打ちのめしました。
「それが? 酷い、だってあなたは以前のあなたじゃない! 死んでしまったんだわ、私を置いて!」
「命なんて、私は元々持っていないのです。ジュリエット様」
ジュリエットはその言葉で、永遠にロミオを失ってしまったことを思い知りました。
「そんなことない! あなたは確かに笑っていた。あなたは私を愛していると言ってくれた。あなたは確かに生きていたのよ」
気が遠のき、倒れてしまいそうだ、とジュリエットは思いました。実際、ジュリエットは貧血を起こしたように目の前がぐらぐらと揺れています。
一方で泣きそうな顔でジュリエットに訴えられても、ロミオは何とも返すことができませんでした。生死などロミオにはないのです。ロミオはジュリエットと違ってアンドロイドで、人の生死は言うなればアンドロイドにとっての起動と停止です。その意味で、確かにロミオは”生きて”いるはず。今まさに彼は稼動しているのだから。
しかしジュリエットは違うというのです。それだけでは”生きて”いないのだ、と。
いったい何が違う?
ジュリエットの悲しみに歪んだ顔が、ロミオの中の何かを揺さぶって掻き回しました。眩暈がしたような気がして、ロミオは胸を押さえます。ロミオの視線がジュリエットから離れると、ジュリエットは涙を流しました。そして彼女は身を翻して書棚に駆け寄ったのです。そこには、ジュリエットが密かに手に入れていた毒薬が瓶に入れられて置いてありました。
「ジュリエット?」
ロミオが気づいた時、ジュリエットは書棚の中に隠していた小瓶の蓋を開け、泣きながらその中身を呷っておりました。
「よせ!」
ロミオはジュリエットの細い腕に飛びついて、小瓶をジュリエットの手から叩き落としましたが、ジュリエットはすでに小瓶の中身を嚥下した後でした。吐かせなければ、とロミオは考えましたが、即効性の毒はすでにジュリエットの体に染み込み、彼女はロミオに抱きとめられたまま、身を折って血を吐きました。ロミオには流れていない、赤い、赤い血です。
「ロミオ……私、あなたと同じ場所へ逝けるかしら」
微笑んだジュリエットが見ていたロミオは、彼女の体を抱きとめているロミオではありませんでした。それを知った時、ロミオの中に生まれたものは何だったのでしょうか?
忘れてしまった人の記憶と違って、消されたメモリは“思い出す”ということができません。もうどこにも存在しない情報だからです。ロミオは何かを“思い出した”わけではありませんが、確かに何かを“取り戻し”ました。
「……エット、……ジュリエット!」
けれどその叫びはもう遅すぎました。万感の想いを込めて呼んでも、揺さぶっても、ジュリエットは目を覚まさなかったのです。それを知っても、ロミオはしきりに叫び声を上げ、ジュリエットを呼び戻そうとしました。涙はなくても、ロミオは泣いているようでした。
「いったい何事だ! 何を騒いでいる、ロミオ!」
やがてロミオの叫び声を聞きつけたお父様が部屋に入ってきます。ロミオはそこで初めて、ジュリエットの名前を呼ぶのをやめました。顔を上げると、お父様が真っ青な顔でロミオを見ています。ロミオと、その腕の中でぐったりとしているジュリエットを。
「……な、んだ? 何をしているロミオ……貴様、ジュリエットに何を……」
「俺が……俺が殺した」
ロミオは虚ろな目をしてそう言いました。それは事実ではありませんでしたが、ロミオの中では確かな真実だったのです。そういう真実が存在しているということが、アンドロイドにとって特異なことであると、ロミオは自覚していたでしょうか。
「な、んだって?」
「俺が、ジュリエットを殺した」
ひとつひとつの言葉を噛み締めるようにして、ロミオは言いました。
「貴様……っ! 何てことを!」
恐れていたことが起きてしまった、とお父様は思ったでしょう。それと同時に思ったはずです。
しかし、何故? と。
「貴様なんて、買ってこなければ良かった。ジュリエットを……娘を返せ!」
こんなことになるのを避けるために、いくらジュリエットに強請られてもロミオに感情プログラムを入れなかったのです。こんなことになるのを避けるために、ロミオのメモリを消去したのです。だからこんなことは、起こるはずがありませんでした。なのに何故か、事は起こってしまったのです。
「返すものか。ジュリエットは……俺のものだ」
そうです。この屋敷に買われて来て、誕生日の贈り物としてジュリエットに出会ったその日から、ジュリエットはロミオの宝でした。消されていない記憶の中で、お父様がロミオに言ったのです。
ジュリエットは私の宝だ。そしてお前の宝でもある。
けれど大切な宝物ほど、他の人と共有したくない、自分だけのものにしたいと思う気持ちが強くなるのは当然のことです。ロミオの宝は、ロミオだけのものなのです。
ロミオは腕の中の宝物を抱き上げて、立ち上がりました。アンドロイドのロミオにとって、ジュリエットの体などたいした重さではありません。
「待て! どこへ行くつもりだ!」
こうなってしまったら、ロミオが頼れるような人は一人しかいませんでした。ロミオはジュリエットを腕に抱き上げたまま、窓辺によりました。お父様がそれを見て、いつも懐に入れていた銃器を抜きます。それは強いレーザーを発する銃で、抜きざまに放たれたレーザーによって、ロミオの胸に穴が開きました。
ロミオはその衝撃で前にのめりましたが、その勢いを借りる形で窓から飛び降りました。ジュリエットの体を大事に抱えたまま、お父様の叫びを背後に聞いたまま、ロミオは夜の闇の中を人では出せないスピードで走り出していたのです。
夜の闇は世界が違っても同じ色をしています。皆さんの世界と同じように、この世界も星が空に瞬いていました。それを見上げるのは恋人達を待っている隠者でした。
あの若い恋人達が選ぼうとしている道が正しいのかどうか、隠者には分かりませんでした。けれど分からないからこそ、彼らを止めることもできないと隠者は知っていたのです。隠者は約束の日を守り、すべての準備を整えてロミオとジュリエットを待っていました。けれどそろそろ日付が変わろうという時間になっても、彼らは現れません。
ジュリエットの父親によって、彼らがここに来ることができないという状況も想定はしていましたが、それでも隠者は彼らが訪れるという希望を持っていました。サイボーグである彼は人と同じく適度な睡眠を必要としましたが、とても寝て待っていられるような気分ではありませんでした。だから玄関に付けたカメラが、人を抱えたアンドロイドの姿を映したところで、ほっと安堵の息をついたのです。
「遅かったじゃないか。なにもかも準備して待っていたの、に……」
扉を開けた隠者は、自分の片目が、ロミオの抱えているジュリエットの体温を感知しないことを瞬時に悟りました。ジュリエットの体は生きている人間にはありえないほど、体温が下がっていたのです。そしてわずかに残る、口元の血の跡。
「……何故、彼女が死んでいる?」
隠者は静かに尋ねました。
「俺、が殺し、た」
すると、かすかにノイズの混じる声でロミオが答えました。隠者はロミオの右胸に、銃器で焼かれた穴が開いているのを見てとりました。アンドロイドの脳は人と違って胸にあります。人であれば肺や心臓のある位置に、アンドロイドはその動作に必要な中枢機械を持っているのです。ですから、そこを打ち抜かれてしまえば、アンドロイドは簡単に機能しなくなってしまいます。
「お前……」
隠者にはジュリエットを殺したのがロミオだとは到底思えませんでした。アンドロイドは決して人を肉体的に傷つけないように作られているはずなのです。まして恋人となった人に毒を盛って殺すなんて。
「離、れたくナイ。だから……タノム」
隠者はものをよく知っていましたが、神ではありません。いったい恋人達に何が起きて、ジュリエットが死ぬことになったのか見通すことはできませんでした。ただ隠者は信じたのです。ロミオはジュリエットを殺していない。けれど、何らかの不幸によって、二人は意図せず引き裂かれてしまったのです。でも、これ以上は離れたくないとロミオは言います。
「……分かった。必ず、一緒に葬ってやるよ。誰にも邪魔をされない場所に」
隠者はロミオに約束しました。そして隠者はロミオをソファに座らせます。動かないジュリエットは、ロミオの膝に座る形で目を閉じています。それは男女が入れ替わったピエタのようで、動かないジュリエットはとても美しく見えました。
「アリガト、う」
ロミオは自分の膝に乗せたジュリエットの滑らかな頬を手で撫でました。その仕草に滲み出ているものが、愛情以外の何であろうか、と隠者は思います。
「……オレ、は、彼女とオナジ場所に、逝けるダロウカ」
徐々にノイズ音を酷くしながら、ロミオは小さな声で言いました。
「もし違う場所に行ってしまったら、探せばいいだろう。彼女だって、お前を探しているさ」
隠者はそう言ってロミオを励まします。
「そう、ダナ。カナラズ、探し、出す」
その瞬間、隠者は確かに微笑んだロミオの顔を目にしました。まるで人のようだ、とは以前に思いましたが、この笑顔は人よりもずっと純粋で、素直な笑顔でした。そしてロミオは、殆どノイズと区別のつかない声で、最後の声を上げました。
「アイシテイル、ジュリエット」
その心がどこからやってきたのか、それは誰にも分かりません。
ジュリエットを横抱きにしたまま、ロミオは静かに目を閉じ、全機能を停止しました。隠者にはそれを直して、再び機能を回復させてやる技術がありましたが、彼はそれをしませんでした。ただ彼は二人を葬る前に、ロミオの内部プログラムを少しだけ覗いてみました。ロミオは確かにここ数日のうちにプログラムを書き換えられていて、メモリのいくつかが新しくなっていたようです。それはジュリエットとの数々のふれあいの記録であり、つまりロミオは彼女に恋をしていく大切な過程の一部を永遠に失っていたのでした。
しかしそれでもロミオはジュリエットを愛していると言いました。彼女を抱きしめ、彼女の髪にキスをして、そして微笑みながら彼女を追って逝ったのです。ジュリエットがロミオの中に組まれたと信じていた感情プログラムも、最初から彼の中にはなかったのですから、記憶としてのメモリを失うその前から、いったいロミオが何を得て、メモリと共に何を失い、また取り戻したのか、それはロミオにさえ分からないことなのです。
隠者は最初にジュリエットが訪れ、そして望んだとおりにしてやりました。ジュリエットの脳を取り出し、用意していたサイボーグの体に埋め込んで、人間の体は骨も残さずに焼きました。それからロミオの胸に空いた穴を塞ぎ、機械の体を持ったジュリエットと共に樹脂の棺に閉じ込めたのです。
ジュリエットのお父様が、死んだ娘と、それを連れ去ったアンドロイドを探していることは知っていましたが、隠者はその手をかいくぐって樹脂の棺を海へ沈めました。
ただ、彼に近づきたいと思うだけなのよ。
その言葉は本当になった、と隠者は海底を見て思います。ただし、ジュリエットがロミオに近づいたのではありません。近づいたのはロミオの方でした。泡沫の命に宿った泡沫の恋。結局は悲恋にしかならない、短い情熱の姿は隠者には理解しがたいものでした。
けれど何故か憧れる。
ここでこの物語は終わりますが、恋人達は海の底で二人の恋物語を謳い続けるでしょう。人とアンドロイドの短い悲恋の歌を。皆さんにはその歌を愚かだと思い、そして少し愛しいと思って欲しいと思います。